《母は音楽教師》
音大ピアノ科卒で音楽教師をしている母、
国語教師をしている父の元に生まれる。
姉妹の長女。
物心ついた頃には、すでにピアノを習っていた。
母は良くありがちなママ先生で、かなりのスパルタ。そして勤務先の高校で合唱部の顧問をしていたので、家の中では一日中、混声合唱曲や黒人霊歌などが流れていた。
合唱曲が子守唄の中、すくすくと育つ。
《呪文のような歌を口ずさむ3歳児‥》
3歳の頃、シューマンの「流浪の民」という、大人でも難解な歌詞(訳詞が文語体)の合唱曲を呪文のように口ずさんでいた。
それを聞いた母の妹が、
「お姉さん!!この子、気が狂ったー!」
と大騒ぎしたそうである。
3歳児が口ずさむような歌ではなかったようだ。。
《保育園時代》
保育園のころは写真嫌いで、お遊戯会などで綺麗な衣装を着ていてもいつも仏頂面。睨んでいる写真ばかりだった。
両親は忙しく、平日はほとんど祖母に面倒を見てもらっていた。
《合唱指導に熱中する母》
暇さえあれば、母の指導する合唱部の練習に、姉妹で見学に行っていた。高校生のお兄さんやお姉さんがたくさん可愛がってくれるのも、嬉しかった。
母はとてもユニークな人で、合唱部の指導は熱血だが、おもしろいアイディアがポンポン飛び出し、指揮だけでなく、舞台でも踊ったり歌ったり。
当時はあまり取り入れられていない、独自に振りをつけたミュージカル曲などにも積極的に取り組んだりと、大人気の音楽教師だった。
《スパルタ》
ところが当の娘には。。
ピアノを練習していると、キッチンから【おたま】を持って飛んできて、『その音の出し方違う!!』『もっとちゃんと弾いて!!』
毎日毎日、口うるさい指摘が飛んでくる。
まともに1音も弾かせてもらえなかった。
《地域一厳しい先生に》
母のシゴキの元、ピアノは順調にレベルアップ。
地域一厳しい先生のレッスンに通い、将来を期待される。
小学校1年生の時に『人形の夢と目覚め』を弾き、その音楽的才能に「天才だ」ともてはやされ、先生や周りの期待を一心に背負う。
《ピアノをやめる》
しかし本人は、周りの友達が年相応に遊ぶ様子を見て、羨ましくて仕方がなかった。
自分は、毎日2〜3時間ピアノに拘束される日々。
『もう、うんざり!!!』
小学校2年生の時には、我慢ができずにピアノをやめると宣言!
「もったいない」と周囲に引き留められるも、きっぱりとやめる。
そして、子供らしく自由な日々を謳歌する。
《小学校時代》
でも、やはり音楽は好きだった。
小学校の音楽部に入って合奏を楽しむ。
その時にみんなで演奏した、ホルストの「木星」、「コンドルは飛んでいく」、「ペルシャの市場にて」のメロディに心を鷲掴みにされたことは今でもよく覚えている。
《地元の少年少女合唱団に入団》
そして気付くと、児童合唱団に入団していた。
ここでは、たくさんの児童向けの合唱曲に出会い、声でハーモニーを重ねる楽しさを味わう。
《母が病気に》
そんな中、母の大病がみつかった。
家から遠く離れた病院での大手術。
手術前、病院に見舞に行った帰りのエレベーターで、母が笑顔で手を振ってくれたのを鮮明に覚えている。
不安と淋しさが押し寄せ、涙が溢れた。
《声が出ない》
難しい手術だったが、手術は成功。
無事退院した。
しかし薬の副作用で、母の取り柄だった美しい高音(声)を失う。
なんと、歌える音域がテノール(男声の高音域)になってしまったのだ。
音楽の授業や合唱部を指導する母には、致命傷だった。。
《ピアノを再開》
そうこうするうちに、自分の中の「やっぱりピアノが弾きたい!」という想いに目覚め、自らの意思でピアノの再開を決意。
4年生で新しく師事した先生は、とても優しい先生だった。
両親は、「本当に再開するの?」と半分呆れ状態、レッスンへの送迎は一切してくれなかった。自分の足で毎週レッスンに通う。
《やさしい先生》
今度の先生は、叱らず、温かくレッスンしてくださった。
しかし2年程きちんと弾いていなかったことで、思った以上にピアノの実力は下がり、その先生のところではあまりパッとしなかった。
このピアノを辞めていた約2年間のブランクが、後々響いてくる。
《中学時代》
大反抗期に突入。親とはしょっちゅう喧嘩。
反抗の限りを尽くし、取っ組み合いはざら。
物を投げたり、身体中、傷だらけ。
良く青あざを作って学校に行っていた。
《自転車保険?!》
学校では普通に真面目な子だったので、そんな青あざ状態を見て、
担任の先生が「どうしたの?」とかなり心配してくれた。
仕方なく「自転車で転んだ」と嘘をついたところ、
「それなら、加入している自転車保険に申請をしよう!!」と、
わざわざ家にまで電話をくれ、親子で気まずい思いをしたのは今では笑い話である。
《まさかのバスケ部》
ピアノを再開していたのにも関わらず、
そして運動が得意ではない(むしろ、できない)にも関わらず、
何を血迷ったのかバスケ部に入部。
もちろん両親は大反対!!
案の定、突き指しまくり、ケガしまくり。
そんな状態だったので、中学時代もピアノはあまり進まず。。
《厳しい先生が懐かしい?》
ところが不思議なもので、この頃から前の厳しい先生のレッスンが懐かしくなってきたのだ。そしてまさかの出戻り!!!
自分でも、一体どんな顔をして先生にお願いしに行ったのやら・・・
《真面目に練習》
前の先生のレッスンは、相変わらず厳しく、
・基礎重視・バロック、古典派中心。
みっちりなレッスンが続く。
ブランクが空いたこともあり、ロマン派の曲は全く弾かせてもらえなかった。
しかし、自分から戻りたいと言った手前、自ら積極的に練習するようになり、練習量もぐっと増えた。
《母の高校か?父の高校か?》
高校は、選択肢が少なく、学校選びがあまり自由にできなかった。
母の勤める高校に行くか、
父の勤める高校に行くか?!
究極の選択!!!(笑)
結局、母の勤めていた高校に入学。
しかも入部したのは母が顧問の合唱部。
親には中学の時に散々反抗をしたので、高校では嘘のようにそれがなくなり、学校で有名な仲良し親子に。
《奇妙な高校生活》
妹も後から同じ高校に入学し(そしてもちろん合唱部。)、
起きてから寝るまで、家でも学校でも親娘3人ずっと一緒という、奇妙な高校生活となった。
ただ、学校で唯一恥ずかしかったのが、お互いの名前を呼ぶ時。
当時、教師歴20年の母も、音楽の授業で点呼を取るたび、自分の子の番になると緊張で口ごもってしまったという。
結局わたしは3年間、母のことを「先生」と呼ぶことができなかった。
《部活に燃える》
その高校といえば、合唱部。と言われるくらい、活動が盛んな部活だった。
70〜80人の大所帯の混声合唱団。
母は、相変わらず熱血指導。
私も素直に母の指導に従った。
だが、コンクールの県大会では、後一歩のところで金賞を逃していた。
よく、みんなで悔しくて泣いた。
《NHK合唱コンクール》
高校2年生の夏、NHK合唱コンクールの県大会。
わたしはピアノ伴奏、兼、全体のマネージャーとして全体をまとめる役目。
レギュラーメンバーの選出などにもこだわり、ここで念願の金賞をようやく受賞したのだが、代表には選ばれず、次の大会に行けずにまた皆で泣いた。
《え?ピアノじゃなくて歌?》
この頃は、学校式典で全校合唱のピアノ伴奏を担当したり、先輩が出場した「全日本高等学校声楽コンクール(全国大会)」のピアノ伴奏で九州まで遠征に行ったり。
ピアノ伴奏ばかりしていた。
そんな中、合唱部員が多数出場していた声楽コンクール、なぜかちゃっかり自分も「声楽部門」で出場し、優秀賞を受賞した。
《再チャレンジ》
部活では高校3年生の時、全日本合唱コンクール県大会で、ついにチャンスが!
自由曲の選曲にこだわり、みんなで曲の解釈も散々やった。
ほかの先生に注意されるほど、練習も毎日遅くまで。
「絶対に金賞を取るぞ!」と一致団結。
家に帰ってからも、母と私と妹との熱いミーティングの毎日。
父は完全に呆れていた。
《高揚感》
忘れもしないその本番。
レギュラーメンバーたちに混じり、今回はピアノ伴奏ではなく合唱メンバーとして舞台に立つ。
緊張と高揚感で身体が震えた。
合唱コンクールは、音程の微妙なズレ、呼吸のズレ、少しの違いが命取り。
指揮者である母に全信頼をたくして、みんなで心を一つに音楽を作る!!
《終わった・・・》
今まで味わったことのない感覚だった。
音楽の魔法にかかった瞬間だった。
結果はわからないが、やり切った。
もう悔いはない、
そんな最高のステージだった。
《結果発表》
銅賞・銀賞と順番に発表された。
いつもなら、銀賞で名前を呼ばれるのに
まだ呼ばれない。
みんなが目をつぶり、下を向いて祈る中、、
『金賞 ◯◯高校!』
この後、大歓声が起こり、レギュラーメンバーも団員もOBもみんなで飛び上がって喜んだ。
そして、そこかしこで、みんな泣いていた。
気持ちが落ち着き、絶対に泣いているだろうなと母の方を見ると。。
意外にも、母は、、、笑っていた!!!
会場の外に出て、レギュラーや、レギュラーになれなかった部員、
OBたちとみんなで勝利の校歌を泣きながら歌った。
そして、私の青春時代が終わった。
《音大受験》
気がつけば、母と全く同じ道を歩んでいた。
…ピアノから合唱、そして声楽の道へ。
高校時代から、ピアノと並行して本格的に声楽のレッスンにも通い、美声だと褒められたのが嬉しかった。
音大受験を考え始めたとき、ピアノ科か、それとも歌科か?!
この時すでに歌の魅力に取りつかれ、合唱で得た体験も忘れられず、迷った末に声楽科を目指すことに。
この時、すでに高3!!
浪人覚悟で国立音楽大学の声楽科を受験するが、見事に失敗。そんなに甘くはなかった。
《浪人時代》
すべり止めで受けた音大の声楽科には合格していたのだが、どうしても国立音楽大学に行きたかった。浪人を決める。
浪人時代も音楽だけできる喜びで満たされていたが、やはり準備期間が足りなかったのだろう、またしても声楽科は不合格。
最終的には、ピアノと声楽を両方学べる音楽教育学科に合格。
不本意ではあったが、ピアノも声楽も両方学べるこの学科が、結局のところ、自分にはとても合っていたのだ!!!
《音大時代》
年子だったため、同時に大学生になった妹と二人暮らしを始める。
大学では、さらに音楽の視野が広がっていった。
有名作曲家の先生が指揮する女声合唱団に入ったり、プラハ音楽祭のための特別合唱団に入り、プラハを訪問して現地の演奏会に出演したり、積極的に活動の場を広げた。
《ピアノ伴奏で充実の日々》
声楽科の友達に伴奏をたのまれ、専属伴奏者としてレッスンやコンクール、卒業演奏会や、大学院入学試験の伴奏までさせてもらい、たくさんの舞台を踏ませてもらった。
伴奏ではイタリアオペラのアリアを沢山弾いた。声楽では、主にドイツリートを勉強する。
《サロンコンサートに出演、ピアノを教えるアルバイトも》
フルート科と、声楽科の同級生と一緒に、知り合いのサロンで小さな演奏会を自分たちで企画し、お客様に喜んでもらったのはとても楽しかった良い思い出。
同時に、ご縁のあった小さな子供たちに、ピアノを教えるアルバイトも始めていた。
この頃から、ピアノはソロよりも伴奏に魅力を感じていた。
《卒業後》
中野にあった航空大学校の予備校で、パイロットやCAを目指す現役大学生を相手に、音楽の試験対策の講師を約3年間務める。
仕事の合間にも、プロオーケストラ専属の合唱団に入団し、大きな舞台を何度も経験。仕事をしながらも、歌うことは辞めなかった。
《専業主婦になる》
結婚し、専業主婦になる。
子供は2人授かったが、小さな子供のお世話にかかりきりとなり、思うように音楽活動や練習ができない悶々とした日々を、約4年間ほど過ごす。
周りの音大の友人たちは音楽活動をしたり、働いたり、みんなが生き生きキラキラして見えた。。
《家にこもって、ひたすら子育ての日々》
その頃まだ20代・・
子育てする事はとても幸せだったが、完全に、社会から取り残されたような感覚を味わっていた。
《抱っこしながらでも歌う》
何か音楽がしたい、何かしなければ、、という焦りの中、子供が幼稚園に入る頃には単発で合唱団の舞台に出たり、
子連れで活動ができるボランティアのコーラスグループに入ったり。
小さな娘を連れて、色々な施設を回って活動した。
赤ちゃんだった次女を抱っこしながら舞台に立ったことは、今思うと貴重な体験!
《自宅でピアノを教え始める》
長女が幼稚園の年長になったころ、数名のお友達ママから『子供にピアノを教えて欲しい』と言われたのがきっかけで、小さなピアノ教室をスタートさせる。
《娘の習い事は?》
長女には4歳になったころからピアノを教えており、筋もなかなか良かった。
そんなある日、テレビでオーケストラの演奏する映像を見た瞬間、バイオリン奏者を指差し、「これがやりたい」と言う。
。。本気なのか??
半信半疑で近くのお教室の門を叩き、私自身も弦楽器のことは何も分からないまま、ゆるくレッスンをスタートさせる。
《スパルタな日々》
ゆるく習わせていたバイオリン。
1年後、ある事がきっかけで先生を変えることになる。その後師事した先生は、とても本格的な指導をされる方だったのだ。
ここから、本格的なレッスンが開始。
親子で試行錯誤の日々が続く。
明けてもくれても練習、練習・・バイオリン漬けの毎日となる。
そして結局、娘は自分の幼少期と同じ音楽スパルタ道を辿っていたのだ。。
《気後れ》
バイオリンの門下生たちは、幼少期からコンクールの入賞は当たり前、卒業生たちもとても立派な肩書き。
第一線で活躍するバイオリニストもいた。
そんな雰囲気に、親子共に気後れしてしまい、先生にいくら勧められてもコンクールには一切参加せず、なかなかお尻に火がつかないままでいた。
《仲間外れ》
そんな中、娘が小学校の仲良しグループの間で、仲間はずれになる。
普段からテレビやゲームもしないでひたすら楽器ばかり練習している娘と、周りの友達たちにはやはり多少のズレがあったのだろう。
半年ほど親子でつらい日々を過ごしたが、学年が上がったことで新しい友達もでき、小学校の先生方にも支えられ、乗り越えることができた。
辛いときも、ずっと音楽が側にあり、支えられた。
《娘のコンクール挑戦と最難関の音楽高校受験》
その間も、ピアノ教室の仕事の合間に二人三脚で練習を積み重ね、小学3年生でいよいよ本格的にコンクールに挑戦しはじめる。
最初の3年間は思うような結果が出ず苦しみ、幾度となく悔し涙を流した。
そして挑戦4年目の小学6年生の夏、ついに日本屈指の学生音楽コンクール東京大会や、他のコンクールでも入賞する。
さらに某コンクール全国大会では第1位をいただき、受賞者記念演奏会ではモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第4番でオーケストラとの共演も果たす。
この頃から、勢いよくぐんぐん上達しはじめた。
中学3年間の間には、4つのコンクールで全国大会第1位を受賞、
合わせて神奈川県教育長賞を受賞。
そして2020年 、
国内最難関である東京藝術大学附属音楽高校に晴れて合格。
(涙の受験記はブログをご覧ください)
現在も、親娘で挑戦を続けながら研鑽を積む日々である。
《2023年現在》
祖父の代から続く教師の血と、
両親から受け継いだ、明るくユーモアのある性格♪
そして今までの様々な音楽経験を生かした指導力で、現在、たくさんの素敵な生徒さんや保護者に囲まれながら、ピアノ教室を運営。
指導セミナーなどにも積極的に参加し、より良い指導に向けて常に勉強を続けている。
日々のレッスンでは多角的なアプローチで音楽の楽しさ、素晴らしさを伝えており、音楽が大好きで優秀な子供たちが続々と育っている。
♪国立音楽大学 卒業
♪中学校教諭 第一種教員免許(音楽)取得
♪高等学校教諭 第一種教員免許(音楽)取得
♪高校3年生と中学3年生の姉妹の母
♪ピアノ指導歴 12年